私が、初めて張明澄先生にお会いしたのは平成6年10月のことでした。そのころ出版された張先生の名著『密教秘伝・西遊記』をテキストに「南華密教学」の講座をお願いし、さらに「明澄五術」の「子平」や「風水」をはじめとする「命卜相医山」の「五術」についてもご教授いただくことになりました。
以来、張先生がお亡くなりになる平成16年11月までの丁度10年間、張先生の広大な学問分野すべてについてご伝授いただき、その深遠に触れることになりました。
張先生は、以前からご自分の学問を「員林学」と名づけておられましたが、平成13年に「日本員林学会」を立ち上げ、私掛川掌瑛をその代表者として「東海金」という号を授けられ、「員林学」を後世に残すべく、託してくださいました。
この度ご案内申し上げます「張明澄記念館」は、張明澄先生の「員林学」という偉大な業績を保存し公開するスペースとして設立するものです。今のところはWEB上の空間に過ぎませんが、いずれは張先生の偉業に相応しい立派な記念館を建設すべく構想を練っております。このサイトでの書籍・ビデオ・物品等の販売による収益や、張明澄記念館へのご寄付は、記念館建設資金の礎となるものです。皆様のご賛同とご協力を賜りますよう、お願い申し上げる次第です。
「員林学」の名称は、学問分野に「儒林」「杏林」「竹林」などと「林」をつけて呼ぶ中国の習慣に倣うとともに、先生の出身地である台湾の「員林」という地名に因んだものでもあります。
「員林学」は、下記の五分野に分かれています。
「漢学」のなかでも第一に挙げられるのは、『周易』の「甲骨文」「金石文」による解釈です。
『周易』は中国で最初の書物と考えられており、同時代の文章つまり「甲骨文」や「金石文」と同じ文字や文法によって書かれたのは当然であり、後世の文字や文法の解釈では正しく理解することができません。また『周易』に登場する「易卦」と「甲骨文」に残された「干支」は、中国独自の分類記号として、中国の学問の根幹を形成するものです。 第二に「員林学」では「儒家」「道家」「墨家」の思想を中国人の思考と行動の原理と位置づけており、これらを抜きに中国や中国人を理解することができません。また、当時の漢字の意味や文法で漢文を解釈するという『周易』の解読法は『老子』などにも応用され、今までの通説とは違う読み方を提示しております。
「道家」と「道教」は、日本ではほとんど同一視されておりますが、実は非常に異質なものであることも、「員林学」ならではの知識と言えます。「道教」について「員林学」では「漢学」というよりは「人生成型理学」の一環として分類しております。また「道家」の思想は中国仏教にも大きな影響を与え「中国禅」は道家思想なしには成立した可能性がありません。
張明澄先生は「雲門禅」を継承する禅師でもあり、「聖一禅師」という出家名を授けられています。「雲門禅」の特色は「座らない」こと、つまり座禅ではなく「公案」と呼ばれる「問答」だけで「悟り」に導くもので、「悟り」のために「修行」するような無理をしません。これは「無為自然」を人間のもともとの姿ととらえテーマや目的にさえしない道家思想との共通性が見られます。
張明澄先生は、昭和40年代に『間違いだらけの漢文』『誤訳・愚訳』を上梓し、漢文解釈の問題を指摘されました。
中でも王翰の「涼州詞」は日本人ならだれでも知っているような漢詩ですが、その3聯目「酔臥沙場君莫笑」(酔うて沙場に臥すも君笑うことなかれ)の「沙場」は「戦場」の意味であり、「砂漠」という意味は全くありません。「戦場」を「沙場」と呼ぶのは、箱に砂を入れてミニチュアの「戦場」を作り、旗や駒を立てて用兵のシミュレーションをしたことから来ており、「砂漠の戦場」が多かったためではありません。
張明澄先生の漢文読解力、漢詩の作詩能力は、大陸や華僑を含めた全中国人のなかでもトップクラスにあり、日本人では到底太刀打ちできないレベルでした。
張明澄先生は大学で「農業経済学」を学ばれ、その中でも「サービス商品」特に「ホテルサービス」が専門分野でした。 張先生の学問には「机上の空論」というものはなく、すべてが実践に裏打ちされたもので、「ホテルサービス」についても、いつも徹底的にホテルを利用し研究しておられました。
張先生のご先祖は、明の張居正という政治家で、万暦帝の時代に衰えた明朝を救うべく、「経世済民」という政策による大改革を行いました。
張居正の死後、既得権を失って反抗する勢力によって改革は失敗に終わり、張居正の一族は報復を恐れて地方に隠れていましたが、清朝時代になって福建省にいた子孫が台湾に渡り一家を存続させました。その息子で張紅毛という人が、当時台湾で著名な漢方医かつ五術家だった王文澤という人の治療を受けます。このとき王文澤の「貴子を授かる」という予言に従い、張紅毛は王文澤の娘を娶ります。王文澤の予言通り、張紅毛の6人の息子たちは、長男は台湾大学、四男は台湾人で初めて東京帝大を卒業して官僚、政治家になり、次男と五男は医師になるなど、それそれ社会に出て活躍します。
この張紅毛が張明澄先生の祖父に当たり、医師になって員林で病院を開業した次男が張先生の父上張木先生です。
何故王文澤がそれまで見ず知らずの張紅毛を娘の婿と認めたかを推理すると、「子平」などの「命理」によって予測できた、というのが一つ、もう一つは張紅毛の持っていた『経世済民書』にあるのではないかと思われます。
『経世済民書』は張居正がその経済政策を、「経世」と「済民」つまり国策レベルと民生レベルに分けて解説したもので、特に「済民」では、「ホテル」「レストラン」や「マスコミ」「占い師」に至るまで、あらゆる業種の商売のやり方が簡潔かつ具体的に書かれており、王文澤もこれに目をつけたのかも知れません。張紅毛が息子たちに、当時最高水準の教育を与えたのも『経世済民書』の教えに従ったものでした。
張先生の「経済学」も「家学」としての『経世済民書』というバックボーンに裏打ちされ、手の届かない国家の経済政策などよりも、個人や企業などが実践できる実用的な「経済学」に主眼があったように思います。
張明澄先生の父上張木先生は西洋医学の医師でしたが、王文澤の孫だけあって中国医学にも造詣が深く、張先生は子供のころから『傷寒論』などを丸暗記させられ、出来ないと鞭で叩かれたといいます。よく「張先生のようになりたい」と言う人がいましたが、「それなら鞭で叩かれたいか」と冗談を仰っておられたのが思い出されます。
張明澄先生の「中国医学」の根幹は「熱寒実虚」という体質分類にあり、「熱寒実虚」が解らなければ「方剤」ができません。これは「中国医学」では当たり前のことで、「分類」が学問の基礎であることは他の中国の学問と変わりありません。
ところが日本の「漢方医学」には「実虚」という概念はあるものの、「熱寒」という概念はありませんでした。張先生は、昭和30年代から医師や薬剤師に「中国医学」を指導して来られましたが、いまだに浸透しておらず、最近では、大学の先生などが、「熱寒実虚」による漢方方剤を解説されるのをテレビなどで散見することがありますが、まだまだ普及には時間がかかりそうです。
「中国医学」の最高峰は張錫純の「子平方剤」というもので、「十二経絡」の病期ごとに「熱寒」と「実虚」をそれぞれ「十干」の記号で細分化して縦横百通りの組み合わせを作り、実に合計千二百通りの「証」つまり「方剤」に分類したものです。張錫純の「子平方剤」は、既に張先生によって解明されており、これを使いこなすことさえできれば、薬物治療の効率が飛躍的に上がることは言を待ちません。
「南華密教学」については、張明澄先生の名著『密教秘伝・西遊記』にその要旨が公開されております。
中国の仏教は、ある時は手厚く保護優遇され、またある時は徹底的に弾圧されるなど、権力者の恣に翻弄されてきました。特に明代では、元朝つまりモンゴルの支配時代にチベット仏教が国教として保護されたことへの反発から、仏教の中でも特にチベット密教が攻撃の対象になりました。 そこで中国南部揚子江南岸地方の密教信者たちは、表立って寺院などを持たず、在家居士として秘かに密教を奉じ、法灯を守り続けました。中国南部つまり南華地方の密教なので、これを「南華密教」と呼びます。 『西遊記』とはそのような密教信者らが、「南華密教」の秘儀を比喩や暗喩の形でまとめ、密かに怪奇小説の中に閉じ込めたものです。
「南華密教」の内容は、「経典」「功夫」「実学」「秘術」の四部門からなり、『西遊記』にはこれらの四部門がすべて網羅されており、比喩や暗喩の意味さえ解れば、そのまま経典として使うことができ、面白く読んでいるだけで「南華密教」の真髄を知ることができます。 一例を挙げますと、登場人物のうち、「玄奘法師」は「三蔵」で「経典研究者」、「孫悟空」は「悟空」で「功法実践者」、「猪八戒」は「悟能」で「戒律守持者」、「沙和尚」は「悟浄」で「寺院経営者」という風に、それぞれの立場で進むべき仏の道を指し示します。「南華密教」の秘伝は、現代科学の目で見ても非常に合理的であり、非常に効率の良い修行方法を取っていることが一つの特長です。
もう一つ大切な点として、「南華密教」は在家居士らによって伝えられた教えだけに、もっぱら個人を基盤としており、多くの宗教のように、教義や教団のために信者が犠牲になるような考え方を取りません。このことは『西遊記』にも「白骨婦人」のエピソードとして書かれており、個人が集団の犠牲となることを戒めています。
仏教の目的は「苦」を克服し解消することにあり、「苦」を増やすことではありません。
「人生成型理学」とは、「易卦」や「干支」を利用した「命卜相医山」のことであり、「五術」または「記号類型学」と言い換えることもできます。
張明澄先生は、実名を張耀文と称され、「明澄五術」という「五術門派」の十三代掌門(当主)でもあられました。「門派」というのは、日本で言う「流派」とは異なり、主に明の時代に、有力者の参謀として、また私兵部隊として、権力抗争の一翼を担ったものです。香港のカンフー映画で武装集団同士が戦争のように戦う場面を見ることがありますが、カンフーのような武術も五術の一環であり、当時の門派の姿の一端を垣間見せてくれます。
先述の王文澤は「明澄五術」の十代掌門でしたが、十一代が早世、十二代が空位になっており、1934年に張先生が生まれたときに、命式を見て十三代掌門に指名し、戸籍名の「明澄」という名を与えました。張先生は王文澤の曾孫に当たるため、代を数えると十三代ということになります。
「命」は「命理」とも呼ばれ、生年月日時の「易卦」や「干支」を基にして課式をつくり、やはり「五行論」に基づく法則によって個人の体質や才能を測り、「貴賎、寿夭、吉凶、富貧、成敗」の「五訣」を判定します。「子平」や「紫薇」などが特に有名です。
「卜」のうち、「占卜」は、何らかの偶然によって得られた「易卦」や「干支」をもとにして課式をつくり、「五行論」に基づく法則によって、物事の「吉凶」や「成否」「象意」「応期」などを判断するもので、「断易」「六壬」などが有名です。また、何かを実行する際に「方位」や「時間」などを選ぶのを「選卜」と言い、目的の達成を容易にするとともに、望まない事態を避けることができます。
「方位」と言えば「奇門遁甲」が有名ですが、1960年代後半に張耀文先生が『奇門遁甲天書評註』『奇門遁甲地書評註』(台湾集文書局)を公開されたのがブームの始まりであり、それまで「奇門遁甲」は名称が知られるだけで、具体的な作盤法や使用法は誰も知りませんでした。現在世界にある「奇門遁甲」は、すべて両書をベースにしたものと言っても過言ではありません。「卜」の中には「測局」というものもあり、これは天下国家人民大衆などの動静を予測するものであり「太乙神数」や「皇極経世」などが特に有名です。
「相」というのは、五官で感知できる情報、つまり、目に見える、耳で聞こえるものから、物事の現在ある状況や影響を判断するものです。 例えば「風水」は「地理(地相)」「陽宅(家相)」「陰宅(墓相)」とも言うように、土地の起伏やうねり、建物の外観や間取り、お墓の形状などを、「干支」や「易卦」などによって分類された条件で見て、その影響によって人間が得られる「貴賎、寿夭、吉凶、富貧、成敗」の「五訣」を判定します。「三式」と呼ばれる「太乙(天式)」「奇門(地式)」「六壬(人式)」の「風水」が最高峰と言えますが、今日の風水ブームのなかではあまり知られていません。
「相」には「風水」の他、「名相」「印相」「人相」というものもあります。「名相」とは「姓名学」のことで、姓名の「字画」「字形」「字音」「字義」によってその人の人生にどのような影響を与えるかを知ることができます。このうち「字画」の効果というのは必ず「康煕字典」の画数でなければなりません。もともと「康煕字典」の画数で統計を取った結果が「姓名学」の始まりであり、「康煕字典」の出来る前には画数の姓名学というものは存在しませんでした。「姓名学」では「数形音義」を網羅した「子平姓名学」と、音声に特化した「奇門遁甲姓名学」を使用します。
「印相」の効果というのは「図形心理学」を根拠とするもので、「字形」による姓名学と共通の「干支」の法則を使います。特に高度な「星平会海」を用いた「印相」では、印面を人間の顔に見立てて「人相」の「十二宮」を印面に配置します。人間の脳は円形や方形で左右対称のものを見ると「顔」を認識するようにできており、左右対称にライトを持つ自動車などは誰でも「顔」を感じてしまいます。犬や猫も相手の顔を見て敵かどうか、強いか弱いかなどを判断しますし、人間の赤ちゃんも目が見えるようになるとすぐに顔で母親を見分けます。
「人相」は「面掌」とも言われるように、一般に言う「人相」は「面相」で、「手相」は「掌相」といいます。動物や赤ちゃんでも「顔」で人を見分けるように、「人相」は非常に多くの個人情報を顔に曝しているようなものです。「手相」は健康情報などが端的に現れるところで、特に心臓病や肝臓病などは非常に的確に表現されます。また財運などにしても、人間の現にある状態が表れます。
「五術」のなかで、「医」については「中国医学」と特に違うところはありません。ただ「干支」や「易卦」を使って「記号類型化」した「中国医学」を「五術」の「医」と言うわけです。
[山」は「仙道」とも言うように、食餌法や功法によって体を鍛え、免疫力を向上させるなどして、病気に罹り難い体をつくり、健康と長寿を保ちます。
「道教」の門派には「玄典派」「養生派」「占験派」「符簶派」などがあり、このうち「明澄五術」は「占験派」に属しますが、もちろん「玄典」「養生」「符簶」の法も受け継いでいます。
王文澤は台湾でも非常に著名な漢方医でしたが、そのベースには「明澄五術」の「医」と「山」があり、素晴らしい治療成績につながりました。王文澤は膨大な五術書を残しましたが、「医」に関するもののなかでは『透派方剤参禅口訣』などが張先生によって公開されています。
「五術」には、先ほどの「三式」つまり「太乙」「六壬」「奇門」の他に「三典」つまり「河洛」「星平」「演禽」があり、二つをあわせて「六大課」ともいいます。通常「紫薇」は「六大課」に含まれませんが、実星を扱う「演禽」を「星平」の一種と考え、代りに「紫薇」を「三典」に加えることがあります。
日本員林学会では張明澄先生の「員林学」五分野の講義ビデオ(DVD)を約500タイトルほど保管しております。
学びたい方は、これらの講義ビデオをご覧いただければ、今でも張先生に直接ご教授いただいているように「員林学」を習得することができます。
今後できる限り、「員林学」の書籍化を行い、張明澄先生の学問を公開し後世に引き継いで行きたいと考えておりますが、「員林学」は膨大であり、私どもがいくら頑張っても書物に残せるのはその一端に過ぎません。多くの講義ビデオが残されたことは、本当に幸運というべきであり、貴重な人類遺産として継承してゆかなければなりません。<
『経世済民書』を残した張居正の子孫である張明澄先生が、王文澤の曾孫として生まれて「明澄五術」の「五術」を引き継ぎ、さらに「経済学」や「南華密教」「雲門禅」などを学んで、「員林学」という学問体系を創出することができたのは、本当に多くの偶然や出会いがあってのものであることはお分かりかと思います。また、我々が現代に生まれて「員林学」を学ぶ機会を得たことは、これまた奇跡とでもいう他はありません。